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「理想の詩」創り出す人々(2018年春号)

紙ヒコーキは夢を乗せて

専業主婦から一転、400年の歴史で初となる女性当主に

 どっしりとした重厚感の中に描かれた、繊細で軽やかな模様。一面に散らされた松葉や、幾何学的な手毬柄など、鉄器の剛健さに造形の美しさが掛け合わされたのが、南部鉄器の老舗、鈴木盛久工房の15代目を務める熊谷志衣子さんの作品だ。「“女性らしい作風”とはよくいわれますね。私自身はあまり自覚がないんですが(笑)」と熊谷さんは穏やかな笑顔を見せる。
 南部鉄器の歴史は江戸時代初期にさかのぼる。茶の湯好きだった南部藩主27代利直公が、盛岡城を築城後、産業振興の一環として京都から鋳物師を招へい、茶の湯釜をつくらせたのが始まりとされる。鈴木家初代もその頃から藩の御用鋳物師として活躍。以来およそ400年の長きにわたって鉄器をつくり続けてきた。
 その鈴木家の歴史の中で、初の女性当主となったのが熊谷志衣子さんだ。もともとは東京の美術大学で彫金を専攻。卒業後は結婚し、実家に近い盛岡で子育てに専念していたが、14代目だった父親が病で急逝、その後一人で工房を切り盛りしていた母親も倒れてしまう。
 「戸惑いながらも、私がやるしかないなと決意しました。彫金の経験があるので作業に抵抗がなかったのと、子育てが一段落したことも大きかったと思います。でもやはり背中を押したのは“この歴史を途絶えさせるわけにはいかない”という思いでした」
 その後4年間、ベテラン職人たちに教えを請いながら腕を磨き、15代目を襲名。46歳のことだった。

ものづくりの楽しさが過酷な現場を乗り切らせてくれる

 鋳物の作業は過酷だ。鉄器の形をかたどる鋳型つくりや模様つけ、磨きの工程など、作業の大部分を背中を丸めた姿勢で行い、長時間の集中力が求められるほか、鋳込みには1500℃に上る鉄を扱う。「鋳型の重さに何度もぎっくり腰になりましたし、鉄の粒が飛び散って服の中に入り、背中をやけどしたことも」と熊谷さん。「それでも、やっぱりつくることは楽しいし、自分のデザインが形になって現れる瞬間がすごく好きなんですね。上手にできれば誇らしく思うし、反省点が見つかれば、次はこうしようという意欲もわいてきます」と話す。
 南部鉄器はインテリアとして飾っても楽しめるが、日用品としての使いやすさにも細心の注意をはらっているという。「鉄という素材の特性もあり、職人が手を入れなければどうしてもゴツゴツしたものになってしまいます。お客様が手にしたときの肌触りが柔らかくなるように、とにかく丁寧に、なでるように磨きをかけるんです」と、そのこだわりを語る。
 今後については、「伝統的な彫の深い模様押しに挑戦したい」と新たな意欲を見せる熊谷さん。たくましさとしなやかさが同居するその姿が、まさに彼女の作品の一つひとつに投影されているように思えた。


工房の様子。建物は明治18年に建てられた。
模様を入れるための道具類。代々受け継がれたものもあるが、必要に応じて職人が手づくりするという。






熊谷さんの代表作「手毬鉄瓶」。一般的な南部鉄器に比べ軽さが印象的な鈴木盛久工房の製品。一般的には4〜5ミリくらいの厚みのものが多いが、こちらでは2〜2.5ミリくらいにして軽量化を図っているという。

熊谷 志衣子(くまがい・しいこ)
1945年生まれ。父である鈴木貫爾(14代盛久)は東京藝術大学教授。大学時代まで東京で過ごし、結婚を機に岩手県盛岡市へ。42歳で鋳金工芸を開始。日本伝統工芸展の本選に4度の入選を果たした46歳の時に15代を襲名した。鈴木盛久工房の創業は1625(寛永2)年。現在次男である鈴木成朗氏を含む4人の若手職人が技を磨いている。

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