3月の震災によって甚大な被害を受けた宮城県気仙沼市。
情報インフラが完全に断たれた震災の4日後から、読者が必要とする身近な情報と、
温かい想いを届け続けている新聞店がある。
人が触れ合い、交わっていく“交差点”のような場であるように——。
そんな想いがこめられたミニコミ紙「ふれあい交差点」の制作現場を訪ねた。
震災で情報・物流インフラが途絶えた気仙沼の街。一部公共機関を除き、2週間以上の停電が続いたため、自分たちや街が、どんな状況下にあるのか知る術もない。完全な情報難民となっていた。「本当に必要な情報を届けたかった」。そう話すのは、ミニコミ紙「ふれあい交差点」の発行を続ける藤田新聞店の藤田裕喜所長だ。 各避難所に集まる大小さまざまな情報は、避難所間で共有できなかったり、自宅に残る住民に届かなかったりした。それに気づいた藤田さんは、住民が共有でき、かつきめ細かな情報発信の必要性を痛感。すぐに災害特別号の制作を開始した。震災一週間後に戸別配達が再開できるようになると、新聞に折り込み読者のもとに届けた。 行政案内に加え、街の様子、安否の伝言、生活必需品譲渡の申し出…。「ふれあい交差点」には、テレビや新聞など大きなメディアが伝えきれないミニコミ紙ならではの地域情報が詰まっている。流れてきたアルバムや車などの所有者を尋ねたり、生活に関する悩みなどが掲載されれば、すぐに読者から何らかの回答が寄せられる。読者同士のつながりが「交差点」を介して広がっていく様子に、「これで気仙沼が一つになった気がする」との声も。安否確認情報は、読者からの情報提供が功を奏しその9割の行方が判明した。 「地域情報が得られる唯一の方法だった時期もあり、役割は大きかったと思う。本当に助かった、これを見ると安心できた、そんな言葉に支えられて発行を続けています」と藤田さん。読者の絆をつむぎながら、「ふれあい交差点」は今後も街の復興に寄り添っていく。 |
藤田新聞店(本店)から約1キロ先の様子(2011年9月現在)。 |
藤田新聞店 (宮城県気仙沼市) 沿岸部の支店は津波に流されてしまったが、営業拠点の本店は被害を免れた。河北新報販売店として約10年前からミニコミ紙「ふれあい交差点」を不定期発行。震災直後からは紙やインクの支援を受けながら「災害特別号」を連日発信し続けた。現在の発行頻度は週3回。店の傍にある実際の交差点は紙名の由来の一つとなった。藤田さんは10月に本年度の地域貢献特別賞(日本新聞協会)を受賞。 |
読者に届けられた手書きのミニコミ紙 | |
震災から4日後、遅配のお詫びと「ガンバロウ」のメッセージを避難所に届けた。3月18日付の災害特別号第一号も停電のため手書き。原稿は河北新報社の連絡員を通し本社の仙台で印刷された。 |
紙がつないだもう一つの縁
ミニコミ紙の印刷にもともとリソグラフを使用していた藤田さん。用紙の調達先だった文具店が被災し紙不足に陥っていたが、今回、藤田さんの知己の方を通してその窮状が理想科学工業に届いた。積めるだけの用紙を積み、仙台支店から車を走らせた平野は振り返る。「届けたのは10日分の印刷がまかなえる分だけでしたが、情報を待ち望んでいた方々のお役に立てたと知り嬉しく思いました」。電気がなくても情報を伝えられ、回覧でき、また確認や記録のため保管もできるといった紙の力も再認識しているという。縁がつながっていく現場がそこにあった。
理想科学工業株式会社
東北営業部 代販課 課長 平野浩二